#25 平尾充庸 混乱の中 光を掴む(前編)

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写真:茨城ロボッツ photo by IBARAKIROBOTS

2012年10月31日。全国タイトルを26回獲得した名門パナソニックトライアンズの廃部が正式発表された。そのチームにキャリア一年目のルーキーとして入団していたのは、現在の茨城ロボッツキャプテンの#25 平尾充庸。

キャプテンとして3シーズン、大一番でのプレーや熱い言葉でチームを鼓舞。B1昇格、オールスター出場を達成し、ロボッツの顔・大黒柱としてコート内外から愛される存在だ。そんな頼りがいのある男でも悩み苦しんだ一年目の葛藤があった。チームの混乱・歓喜を振り返るとともに、試合の勝敗を決める大一番で幾度となくチームを救い、頼りがいのある彼となったルーツに迫る。

目次

憧れの場所で感じた高い壁

天理大4年時に全日本大学選手権大会(インカレ)で3位入賞、優秀選手賞・得点王・MIP賞受賞。瞬く間に、この年のインカレの顔の一人となった平尾。当時から持ち前の身体能力や高精度なアウトサイドシュートで活躍し、卒業後はJBLの名門・パナソニックトライアンズに入団した。

「大学2年ごろから話は頂いていました。他のチームから誘いもあったのですが、早い時期から声をかけていただいたパナソニックさんに入団することを決めました」

当時のパナソニックには、#1 木下博之(現:サンロッカーズ渋谷AC)、#13 渡邉裕規(現:宇都宮ブレックス)、#14 金丸晃輔(現:三遠ネオフェニックス)など日本代表経験者が数多く在籍。

名だたるメンバーとのプレーに平尾はこう振り返る。

「当時のスタープレーヤーがたくさんいる中で、一緒にプレーできることは本当に嬉しかったです。今振り返ってみても豪華なメンバーで、小さい頃から見ていた人も多かったので本当に俺はここに入っていいのかなと思いました」

また、当時のJBLのルーキーで関西の大学から入団したのは平尾のみ。所謂、名門と呼ばれる大学の多い関東の大学出身者がチーム・リーグの大多数を占める中で平尾自身ある壁を感じていた。

「関東の大学との違いを一番感じたのはフィジカル。今まで抜けていたドライブが体で止められる、普通にレイアップシュートを打ったら簡単にブロックされる。スピードに自信があったからごまかしながらプレーしていましたが、目の前に厚い壁を感じました。当時はとんでもないところに来たと思っていました」

大学とJBLの違いなのか、関東と関西の違いなのか。今では、内外と様々な得点パターンを見せ、むしろフィジカルで魅せる部分も多い平尾だが、一年目はそんな苦い経験からの始まりだった。

壁を超えるための恩師からの言葉

目標だったJBL。しかし、それが叶った後、何を目標にしていけばいいのかを見失った。

「向上心がないというか、JBLのチームに入って終わりというようなマインドだったと思います。トレーニングに関しても、個々人に任されていたのですが、やり方がわからない。自分で何でもやらなくてはいけないとなってくると、トレーニングをしないことも増えていきました。気持ちが沈んでしまったというわけではないのですが、正直どうすればいいのかわからなかったです」

細かいことは教えてくれない、簡単なことは出来て当たり前の厳しい世界。戸惑いが隠せなくなってしまう中、今でも平尾の中で印象深く残る言葉を当時のパナソニックトライアンズAC大野篤史(現:三遠ネオフェニックスHC)がかけた。

「大野さんに『お前の目標は何だ?』と聞かれたことがありました。『JBLのチームに入ることでした。でもそれが叶ってしまった今、目標はありません』と返すと『俺は田舎の母ちゃんを喜ばせるために頑張っている。お前もなにか目標を見つけて頑張れ』と話してもらいました。どこで話されたのかも、その時の大野さんの表情も頭に残っています。当時の自分にとっては、印象深い出来事だったと思います」

しかし、平尾はこう続ける。

「今でも覚えているから響いてはいたと思うのですが、安易にその言葉を考えていました。だから努力はしてたかもしれないけど、その後移籍してもそこまで試合に出れるわけでもない。持ってるものはあったと思うけど、努力が確実に足りてなかったです。ただ、『助けてほしい』といったサインを出しても良かったと思います。そういったコミュニケーションも足りなかったので、今は気づいたことは教えてあげるようにしています」

練習中、平尾が若手に声をかけることをよく目にする。あのときの経験を踏まえて確実に心身ともに成長した姿が今ここにはある。あの時とは日本バスケにおける環境も変わったが、苦い経験も踏まえてこのときのすべてが今の平尾につながっているのではないだろうか。

新聞で知ったチームの廃部

いよいよシーズン開幕を控え、パナソニックはリンク栃木ブレックス(現:宇都宮ブレックス)とのプレシーズンゲームに向け、和歌山県で遠征を行っていた。平尾のプロ1シーズン目も迫り、自身もチームも気持ちが高ぶっている頃だっただろう。

しかし、遠征中のミーティングで衝撃の事実を伝えられる。

その日の新聞の見出しに大きく書かれていたのは「パナソニックトライアンズ廃部」の文字だった。

「今でもあの日のことは鮮明に覚えています。急に朝早くミーティングが入り、全員が呼ばれました。部屋に入り、真ん中にあるテーブルに新聞の山が置かれており、一人ひとり取っていきました。全員が揃ったタイミングで清水良規HCが同期の久保田遼(現:東京八王子ビートレインズ)に新聞を読ませて、廃部を伝えられたんです。バスケ部関係者は誰も知らず、頭が真っ白になりました」

会社にとっても思いもよらない形で部員たちに伝わり、チームも事実を新聞記事で知ることとなり、開幕前の高揚は一変。スタッフから「これからどうなるかはわからないから」と言われても不安は隠せなかった。ミーティングが終わっても誰も席から立つことはなかったという。

「嘘だろって。俺のキャリアは始まってもないのにもう終わったのかって。色々なことが頭を巡るけど、長くパナソニックでプレーしていた選手も居たので、その人たちのことを考えたら自分はまだ若いしマシな方だったと思います。周りはざわついていましたけど、自分はただ黙って座っていました」

その後、2012年10月31日、パナソニック株式会社からのプレスリリースでバスケットボール部、バドミントン部のシーズン限りでの休部が発表された。

どれだけ嘆いても悲しんでもシーズンは始まる。さらにその中で、来季のチームを探さなければ職を失う。無情にも時は過ぎていき、JBL最終シーズンである2012-13シーズンが始まった。

「最初はやっぱりバスケットどころではなかったです。その中で勝ったり負けたりし、徐々にチームメイトも来季のチームが決まり、士気が上がっていきました」

来季の進路も決まり始め、目線は現状へ向く。話し合いを重ね、毎日のミーティングの成果もあり、チームは再び前を向いた。最初に標準を当てたのは、トーナメントで日本一を決める天皇杯。

「もう一度全員で天皇杯優勝を掴み取ろう」

ここ数年掴めずにいた日本一。最後の力を振り絞り、決意を固めた。2013年1月3日、パナソニックトライアンズ最後の天皇杯が幕を明けた。(後半へ続く)

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