取材:文:荒 大 text by Masaru ARA
写真:茨城ロボッツ、B.LEAGUE photo by IBARAKIROBOTS,B.LEAGUE
今シーズンのロボッツに在籍する面々で、#1トーマス・ケネディと#11チェハーレス・タプスコットは、Bリーグ以前のプロバスケットボールリーグ「bjリーグ」で日本でのキャリアをスタートさせた。以来、タプスコットは今シーズンで日本在籍10季目、ケネディは13季目と、一貫して日本でのキャリアを積み続けている。日本で、そして日本のバスケットボールの中で生きる2人が見た景色とは。少々懐かしい話も飛び出す対談となった。
「日本」と向き合って
まず、共通認識として、まだSNSも発展途上だった時期ということもあって「日本のバスケットボールリーグ」や「bjリーグ」は、彼らにとっては未知数の存在だったという。
タプスコット「日本のリーグについては知らなかったよね?」
ケネディ「映像を見る方法も分からなかったしね。けど、僕は先に日本でプレーしていた知り合いが何人かいて、そこで日本やbjリーグのことは情報として知っていました」
ケネディは、2011-12シーズンに発足した岩手ビッグブルズのチーム創設メンバーとして日本へとやってきた。それまでにオーストリアやフランスでキャリアを送ってきたものの、本人曰く「次のシーズンに向けたオファーが、岩手からのものだけだった」ということで来日を決意した。その中で、2011年という時期が示す通り、当時は東日本大震災の影響が色濃く残っていた。
ケネディ「東京に着いたところから、もう一度飛行機に乗って仙台へと向かい、そこからクラブのスタッフと車で岩手まで向かいました。被災した地域の景色を目の当たりにして、とにかく驚いたのを覚えています」
一方のタプスコットは、2014-15シーズンにバンビシャス奈良の一員として日本へとやってきた。当時のチームを率いていた小野寺龍太郎(現:レバンガ北海道HC)が、アメリカ時代の活躍を覚えていたことから獲得につながったという。当時の奈良もチーム創設2年目。まだまだチームも組織も「若い」時期だった。
初めて生活する日本に慣れていくのは、大変なこともしばしば。2人はまず、日本の自然や天候と向き合うことから始まった。
ケネディ「開幕直後の10月から、シーズン中もずっと雪が降り、5月までそれが続きました。岩手がここまで寒いとは知らず、コートやジャケットを準備していなかったので、シーズンの始まりから、寒さとの戦いでした」
タプスコット「アメリカの西海岸で過ごしていたことから、ハリケーンのような災害に出くわすことはほとんどありませんでした。日本で暮らし始めて、すぐに台風がやってきて、何にどう備えたら良いのか、僕には分かりませんでした。あと、地震がちょくちょく起きることにも驚きましたね」
また、今のBリーグでこそ、練習や試合の環境も整ってきたと言えるし、新規参入チームはまずそうした環境を整備して、リーグに挑むのもトピックになるほどだ。ところが、まだまだ発展途上のリーグやチームにいた2人にとっては、そうした練習環境も思い出や笑い話の種になっているようだ。
ケネディ「練習会場がとにかく寒かったんです。練習場では大型のヒーターがコートの隅で焚かれていました。とは言え、置いている意味が無いぐらいずっと寒い」
タプスコット「寒い体育館で練習すること自体が経験のないことでした。だから、いつも練習用のパンツのポケットに手を入れて温めていましたね。練習場だけかと思えば、試合会場でも寒い場所があったたんですよ(笑)」
その一方で、オフの過ごし方は、ある意味対照的とも言えた。タプスコットは「日本を学ぶ」、ケネディは「母国の感覚を味わう」というスタンスだった。
タプスコット「最初に住んでいたのが奈良だったので、オフになると大阪に行って、日本の食べ物にも挑戦していました。牛丼のような、日本的なファストフードも食べましたね。2年目に大分や愛媛に行ってからは、温泉にもよく行きました」
ケネディ「日本でカレーライスにハマったこともあったけど、食べ過ぎてしまって今となってはほとんど食べていないですね(笑)。それ以外にも、横須賀の米軍基地にいる友人を頼って、アメリカの食べ物を、段ボール詰めにして送ってもらいました。日本での2年目は横浜で過ごしたので、その時はオフの日に横須賀まで行って、米軍基地の中のレストランに行くのが楽しみでした。基地に行くときには、必ずスーツケースを持っていって、ケースいっぱいにアメリカでしか買えない物を詰め込んで帰る。それが習慣になっていましたね」
移動や遠征も、思い出
Bリーグ、特にB1のチームでは、今や公共交通機関を使っての移動も決して珍しくはない。遠征となれば飛行機や新幹線を使うし、そこに出くわした人もいれば、移動の様子をクラブのSNSなどで目にした人もいるだろう。だが、bjリーグ時代の移動手段の基本は「バス」。それは彼らにとっても例外ではなかった。
ケネディ「最も長かったのは、岩手から京都へのバス移動でしたね(笑)シーズン終盤の一度だけでしたけど、移動が長すぎるから、試合の2日前が出発日でした」
タプスコット「僕の場合だと、大分から島根へ行ったときかな。8時間とか、それぐらい掛かったと思います。今みたいな、チームのロゴが入ってゆったり座れるようなバスじゃなくて、本当に普通の観光バスでしたね。たまに、2つ並んだ席の間にある肘掛けが気になって休めないなんてときもありました」
ケネディ「道中、動画を見ていようと思っても、そもそも自分の席にコンセントがないから、充電しながら見ることもできない。チームからは携帯型のWi-Fiルーターをもらっていたけど、今よりもデータ容量の制限も厳しかったので、すぐに速度制限がかかってしまうものでした。だから、当時は自宅にいる間にパソコンに動画とかをダウンロードしておいて、それを車内で見るようにしていました」
タプスコット「2年目に過ごした大分(大分・愛媛ヒートデビルズ、現:愛媛オレンジバイキングス)では、シーズンのホームゲームが4割ほど愛媛で行われていました。大分でのゲームも、今のように1つのアリーナだけでやる状況でもなかったので、ホームゲームであっても長い移動です。また、大分と愛媛の間にはフェリーが通っていたので、フェリーで移動したのも覚えています」
移動でのエピソードから転じて、遠征先での過ごし方にも話が及んでいった。
ケネディ「僕がいたチームは、ビュッフェスタイルの食事が摂れるビジネスホテルに泊まっていました。他のお客さんと一緒になるんですけど、ビジネスマンが会場にたくさんいたのを覚えていますね。ちなみに、さっき話した、岩手から京都へのバス移動のときだけは、チームがホテルとレストランをそれぞれグレードアップしてくれたので、楽しい思い出になっています」
コート内外の環境は、今のBリーグと比べれば、決して恵まれてはいなかった。しかし、2人はその後も日本へと残り続けた。もちろん、彼らを求めるオファーがあったことも理由だが、それと同時に、彼らはこう振り返る。
ケネディ「『日本のリーグがもっともっと大きくなる』という確信がありました。だから、日本に居続けようと決めましたね」
タプスコット「あとは、日本の文化にも慣れることができたので、慣れた場所だからこそ、また戻ってきてプレーしよう、とも思うことができました」
ケネディ「日本とヨーロッパの試合数を引き合いに出す人もいますけど、ヨーロッパは日本より試合が少ない代わりに、たくさん練習に時間を割きます。試合でプレーをしたい、という中で『バスケットボール選手として長くプレーできるのは?』と自分に問いかけ、日本の方が合っていると感じました」
ケネディは来日2シーズン目の2012-13シーズンに在籍した横浜ビー・コルセアーズで、bjリーグでの優勝を経験する。当時、bjリーグのプレーオフは、カンファレンスファイナル(東西両地区の代表決定戦)とファイナルを東京・有明コロシアムにて行うため、bjリーグファンは決戦の舞台となる有明を「聖地」と呼んだ。「チームの中心選手たちが、いつも一緒にいて、食事に行ったり遊びに行ったりしていたし、その団結感が優勝までつながったのでは」と、当時のチームを振り返るケネディ。だが「聖地」でのプレーには、こぼれ話があった。
ケネディ「実は、クリス(クリス・ホルムヘッドコーチ)が当時はまだ選手で、新潟アルビレックスBBでプレーしていたんです。カンファレンスファイナルで横浜は新潟に勝って、ファイナルに行くことができました。(横浜は)ドゥレイロン・バーンズ(昨季まで信州などに在籍)が、ブザービーターでの決勝シュートを決めたんですけど、リバウンドに入ろうとしたクリスががっくりと膝を落としたのを、今でも覚えていています」
タプスコット「それは…なかなか不思議な縁だよね」
ケネディ「そう言われれば、そうだよね(笑)話を戻すと、ファンで埋め尽くされた有明の雰囲気は本当に良いものでしたね」
得点こそが存在意義
ケネディは身長201cm、タプスコットは身長195cmと、他のクラブや、当時並立するように存在した、実業団チームが中心の「NBL」で主力を張った外国籍選手たちと比べれば、決して大柄ではなかった。bjリーグは外国籍選手が同時にコートに立てる「オンザコート」の制限が現在のBリーグよりもかなり緩く、現在であれば帰化選手やアジア特別枠の選手を絡めないと不可能な「オンザコート3」が日常でもあった。だからこそ、ケネディやタプスコットといったサイズだけで勝負するわけではない選手が日の目を見たわけだが、時代はリーグ統合を経て「Bリーグ」の誕生へと進んでいくことになる。
タプスコット「リーグが変わっても、『バスケットボールはバスケットボール』という意識でいました」
ケネディ「とは言え、Bリーグになったころ、オンザコートが『1-2-1-2(※詳細後述)』だったよね?そこに対しての違いは感じていましたね」
時間帯によっては、1つのクォーターで1人しか外国籍選手を使えない。屈強なビッグマンを補強して戦うクラブも現れる中、2人はBリーグの中で立場を作り続けた。タプスコットはBリーグの最初のシーズンとなった2016-17シーズンを始めとして3度の得点王に輝き、ケネディも2018-19シーズンに得点王とMVPに輝く。2人は日本で確固たる立場を作り続けていったのだ。
ケネディ「守るときは確かにビッグマンを相手にしなければいけない時もありますけど、逆にオフェンスでだったら、彼らに機動力で揺さぶりをかけられる。Bリーグになる前にNBLにいた千葉ジェッツでプレーしたことがありましたけど、その当時がまさにそんな感覚でした」
タプスコット「僕らは、確かに身長に恵まれたプレーヤーではなかったです。だからこそ、チームからは『得点源になれ』とミッションを課せられていましたし、得点を取ることこそが、自分の存在意義になっていきました。B2で得点王になったことで満足することはありませんでしたが、『これで約束は果たせた』という想いにもなりました」
ただ、そうした個人に根ざした感情も、少しずつ変わっていく。ケネディはbjリーグ時代の2015-16シーズンに群馬クレインサンダーズへ加入すると、タプスコットも、2020-21シーズンにロボッツへ移籍したのを境に、移籍続きの生活を辞めた。タプスコットは「今はロボッツを押し上げることに全力を注ぐ」とした上で、さらにこう話す。
タプスコット「毎年のように移籍するのを辞めたのは、いろいろな要素が組み合わさっての結論でした。家族ができたことも理由ならば、フィットしているプレースタイルから変えたくないというのもありました」
ケネディ「僕も同じで、何か1つの理由だけでチームに残っているということはないですね。ただ、多くの巡り合わせの中で、長くチームにいるという選択をしているのは事実です」
タプスコット「あとはリスペクトだね」
ケネディ「そう。日本でキャリアを送る上で、『他人を敬う』ことを大事にしてきました。尊敬の念を持って人と向き合うこと、不平や不満があっても言い過ぎないこと。それはプロとしてずっと持っておかなくてはいけないことだと思います」
この2人にとって、リスペクトの姿勢はプレー以外にも現れると言って良いだろう。タプスコットはモッパーたちにお礼を欠かさないし、ケネディも簡単にはレフェリングなどへの不平を漏らさない。そうした姿勢を常に見せ続けるというプロフェッショナルさも、もしかすると評価され続けているポイントなのかもしれない。
当時のオンザコートルール
「1-2-1-2」といった数字は、当時のBリーグ、それもB2におけるオンザコートのルールのこと。Bリーグの2016-17シーズンと2017-18シーズンでは、B2であれば第1・第3クォーターがオンザコート1、第2・第4クォーターがオンザコート2となっていた。
ちなみにB1ではこの時期「4つのクォーターでのオンザコートの合計が6まで、各クォーターの最大オンザコート2として、試合前にクラブがその試合での振り分けを申請する」と定められていた。
キャリアの中での「日本」
日本でキャリアを送る中での転機として、ケネディにとってのトピックだったのが、2020年の日本国籍取得だった。「少しでもバスケットボール選手としてのキャリアを伸ばしたかった」というケネディは、当時を次のように振り返る。
ケネディ「親交のあった桜木ジェイアール(現:富山グラウジーズスーパーバイジングコーチ)や、アイラ・ブラウン(現:千葉ジェッツ)などに、帰化選手になることについて聞きに行ったことがあります。2人とも『チャンスがあるならやった方が良い』と伝えてくれたのが後押しになりました。ただ、当時は日本語の勉強を毎日のようにこなさなくてはいけませんでした。広島時代は特にハードで、毎朝2時間から3時間、クラブの事務所で勉強するんです。しかも、選手としてはオフに当たる月曜日も、勉強をしなければいけなかった。その日々がとにかく大変でしたね」
タプスコット「家族との暮らしもあるから、もしチャンスがあれば日本国籍取得を考えることはあります。ただ、その過程にはとにかく時間が必要なことも知っているので、今のところは『いつかは取れたら』くらいに考えていますね」
ケネディにとっては、帰化を果たしたことで、また新たな道も開けた。今年のオフシーズンには、3×3の日本代表としてオーストリア・ウィーンで開催されたFIBA3x3ワールドカップへの出場を果たした。佐土原遼(ファイティングイーグルス名古屋)や保岡龍斗(秋田ノーザンハピネッツ)、落合知也(元・越谷アルファーズ)など、Bリーグと3×3の第一人者たちと組み、「AKATSUKI JAPAN」のユニフォームでの躍動も見せた。
ケネディ「これまで、3×3を経験したことはありませんでした。あまりにもプレーのテンポが速すぎて、代表の練習の中で、1分半のゲーム形式で動くだけでもハードだったぐらいです。ただ、3×3も、代表活動も、もの凄く良い経験になったし、来年のパリ五輪の出場ももちろん目指したいです。聖火台に火を点けたいぐらいですし(笑)」
日本でのキャリアが、10年を超えた2人に、改めて、日本の魅力を尋ねてみた。
ケネディ「シーズンを通して『ここが良い』と思えるのは、日本だと各地の都市を巡りながらのプレーになることです。プレーするアリーナや、宿泊するホテルの近くに、大体観光地もありますからね」
タプスコット「遠征先で感じる、日本の町並みや雰囲気も好きだし、行く先々で『OMIYAGE』もある。敵地のアリーナに学ぶこともあれば、各チームのファンやブースターが出す温度感やカラーを楽しむこともあります」
ケネディ「昔、所属していた群馬は、新しいアリーナ(オープンハウスアリーナ太田)になったし、その後は佐賀のホーム(SAGAアリーナ)にも初めて行くし。まだまだ、これからも楽しみが増えていくでしょうね」
「プロバスケットボール」そのものがまだまだあやふやだった時代から日本で過ごし、目まぐるしい成長の中でも生き延び続けた2人。きっと、これからもプレーの中でいくつものドラマを作り出し、コートを離れれば日本を楽しむ風景が続いていくはずだ。これからも、彼らがどんなエッセンスを日本と日本バスケ界に残していくのか。その行く末が楽しみでならない。