取材・文:小沼 克年 text by Katsutoshi Onuma
写真:茨城ロボッツ photo by IBARAKI ROBOTS
茨城県つくば市出身。ロボッツにとって貴重な地元プレーヤーが加入した。3月1日のBリーグデビュー以降、#10 陳岡流羽は早くもチームに欠かせない存在となっている。取材に訪れた日は「大学までの打ち方では通用しないので」と、全体練習後にシュートフォームの改善に取り組んでいた。期待の22歳は、今までどんなキャリアを歩み、ロボッツに何をもたらそうとしているのか。
バスケのために「バリバリ踊った」
両親はともにバスケットボール経験者。父に至ってはかつて実業団でプレーしていたほどの実力者だ。さらには4つ上の姉と1つ上の兄(燈生/現・ベルテックス静岡)の影響もあり、バスケットを始めるのは必然だったかもしれない。

陳岡が本格的に競技を始めたのは小学校4年生の時。その経緯はちょっぴりユニークだ。
「それまではずっとダンスを習っていて、バリバリ踊っていましたね」
陳岡は続ける。「あとから親に聞いたら、『体の柔らかさとリズム感がバスケに活かせるから』って言われて。幼稚園の頃から小4の途中まで習っていました」

こんなエピソードもある。「小学校の時、本当はサッカーがやりたかったんですよ。でも、父に『サッカーやるなら俺は試合を見に行かないよ』って言われたので、『じゃあバスケやる』みたいな感じで始めました」
なんとなく始めたバスケット。ミニバス時代から全国の舞台を経験してきたが、当時は「デブっちょのポイントガードでした」と陳岡は白い歯を見せる。
「よくディフェンスを頑張っていたんですけど、それには理由があって、オフェンスファウルをもらうとコーチからマクドナルドの500円カードがもらえたんです。だから試合で倒れまくって、マックカードもらって、マクドナルドを食べてまた太るっていう…(笑)」

それでも、谷田部東中学校時代にはバリバリのスコアラーに変貌を遂げた。
「自分の代は経験者が僕しかいなくて、他のみんなは中学からバスケを始めました。先輩たちがいた時はアシスト中心の選手でしたけど、3年生の時は自分が得点を取るしかなかったので毎試合50点くらい取っていましたね。ボールをもらったらひたすら一対一という感じでした」
武器を見つめ直した末の日本一
高校は地元の名門・土浦日本大学高校へ進学した。しかし、3年生になった2020年は新型コロナウイルス感染症が世界中で猛威を振るった時期。夏のインターハイは史上初の中止となり、高校最後の大会となる冬のウインターカップは開催までこぎつけたが、土浦日大は陽性判定者が発生したため欠場を余儀なくされた。

中学時代、最後の大会を怪我で出場できなかった陳岡は、高校でも不完全燃焼で引退となった。だからこそ、白鷗大学で無事に4年間を過ごせたこと、さらには日本一を成し遂げた喜びもひとしおだった。大学生活では1年時と3年時にインカレを制覇。陳岡は2度の日本一を果たした経験をこう振り返る。
「1年生の時はベンチには入れなかったですけど、『白鷗に来て間違いじゃなかった。これからも練習を頑張ろう』って思いました。3年生の時は試合に出ていたので、チームの優勝に貢献できた気持ちがありましたし、自分の中ではこっちの優勝の方が思い入れが強いですね」

大学生活でプレーヤーとして最もレベルアップできたと感じるのは「シュート」。高校まではドライブを中心に攻めることが多かったが、大学では3Pシュートをはじめとする外角からのシュートを基礎から磨いた。
白鷗大の網野友雄コーチは、陳岡いわく「答えを言わず、選手に考えさせるタイプ」の指導者。けれど、陳岡は網野コーチから受けた何気ないアドバイスの中で、印象的だった言葉がある。

「2年生の試合に出られるか出られないかみたいな時期だったと思うんですけど、網野さんから『自分のことを“トータルパッケージ”で売らないといけない』という風に言われました。ディフェンスが得意だとしても、それだけでは評価されないという意味で、自分にどんどん付加価値を付けていかなければ試合に出るのは難しいというアドバイスでした。そう言われてからは練習でも積極的に声を出したり、ディフェンス以外にも自分の武器を増やしたりすることを意識し続けました」
「では、今の自分の武器は何か?」と聞くと、陳岡は「そうっすね…」と一拍おいて答えた。
「僕の強みはディフェンス、ドライブ、あとは声を出して周りの雰囲気を盛り上げる明るさ。キャッチ&スリーは、もうちょっとです…。まだ武器とは言えないですね(笑)」

憧れのNo.10
2025年2月、陳岡は練習生を経て特別指定選手としてロボッツに正式加入。幼い頃から試合会場で観戦していた地元クラブの一員となった瞬間を思い出すと、屈託のない笑顔を見せた。
「いやー、もうヤバかったですね。泣きましたもん。特指(特別指定選手)が決まった時はそれぐらい嬉しかったです」

記念すべき最初の背番号に選んだのは、No.10。現在、兄の燈生がベルテックス静岡で身に付けている番号と同じだ。だが、“ロボッツの10番”は陳岡にとって憧れの選手の番号でもある。
「(チーム名が)つくばロボッツだった頃に所属していた中川和之さんが10番だったんです。中学校の時は中川さんにすごく憧れていましたし、父のつながりで直接バスケを教えてもらったこともありました」

憧れのユニフォームに袖を通し、プロ選手としてコートに立つことができた。すると、自然と湧いてきたのは、父をはじめとする家族への感謝の気持ちだった。
「バスケを始めた頃は家でもハンドリングの練習を毎日やらされて、『何でバスケしてるんだろう?』って思っていたんですけど、今はそういった練習も含めて『やっててよかったな』って本当に思いますし、中学、高校の時もいろいろなアドバイスをくれたので、やっぱり家族にはすごく感謝しています」

地元愛はコートを超える
国内最高峰の舞台に足を踏み入れた22歳は、近い将来、どんな青写真を描いているのだろうか。
「コートの中では相手の重要な選手を抑えるエースキラーになって、オフェンスでも3Pシュートを高確率で決められるようになりたいです。あとはポイントガードなので、試合を支配できる選手にもなりたいなと思っています」

それだけではない。地元をこよなく愛する陳岡は、「オフコートでも茨城をもっと発信できる人間になって、ロボッツだけじゃなくて茨城全体を盛り上げられるような選手になれたらいいなって思います」と熱心に語る。
地元を盛り上げるイベントや企画には、一例としてテレビ・ラジオなどのメディア出演、試合会場でのプロデュースグルメ販売、ショップの一日店長などがある。
「その他にどんなものがありますか?全部やりたいんですよね」と、前のめりで話す陳岡に、冗談まじりに「観光大使に興味はありますか?」と聞いてみると、勢いよく即答した。
「あります!!」
22歳のルーキーから溢れる意欲は、ロボッツの希望の光だ。
