#8 多嶋朝飛 転換期を生き抜いて(前編)

取材:文:荒 大 text by Masaru ARA
写真:茨城ロボッツ、B.LEAGUE photo by IBARAKIROBOTS,B.LEAGUE

茨城ロボッツでキャリア12シーズン目を迎えたベテラン#8多嶋朝飛。彼はキャリアを一貫してプロ選手という立場で過ごしている。華麗なスキルで会場をわかせる一方で、泥臭い部分でもチームを引っ張り、今季は39試合でスターティング5に名を連ねる。そんな今季の活躍も、今は無き「TGI D-RISE」というクラブでの日々の鍛錬があったからこそ。キャリアの始まりとなったD-RISEでの日々はどのようなものだったのか。今とは何もかもが違う時代の話を、プロバスケットの世界が広がっている今だからこそ、本人の言葉で振り返ってもらった。

プロになりたいとは思いつつも

本人の話に触れる前に、まずはD-RISEとはどんなチームだったかをここに書き加えておきたい。2010年、当時の日本バスケット界におけるトップリーグである「JBL」に参戦していたリンク栃木ブレックス(現・宇都宮ブレックス)は、北関東におけるバスケットのさらなる発展を狙って、栃木・群馬・茨城の3県の頭文字を取り、下部、あるいは育成チームとして、「TGI D-RISE」を結成。当時のJBL2に参入した。その後のリーグ再編を経て発足した「NBL」の下部リーグである「NBDL」に参加したのち、チームを別会社に譲渡。現在もB2に参戦する山形ワイヴァンズへと生まれ変わったのだった。

現在でこそ、社会人リーグである地域リーグに参戦する青森ワッツネクスト(その名の通り、B2・青森ワッツが運営)など、プロチームが下部チームを持つ例は見られる。ただ当時の日本バスケット界では、明確な下部組織を持つことは非常に稀であった。その縁がつながったのは、どういったタイミングだったのか、まずは大学時代の多嶋について尋ねることにした。

「そもそもトップのリーグに行けるかどうかと、ずっと思っていました。僕は大学3年からやっと試合に出始めたので、その時にやっと『可能性は少しはあるのかな』って思えるようになりました。東海大が強かったこともあり、JBLチームとの練習試合もありましたが、通用はしなかったです。JBLでプレーするチャンスがあるのかを探ろうとしても、やれることもなく、どうなっていくんだろうと思っていました。ただ、だからと言って就職活動をしようとは思っていなかったし、バスケの道で進めるところに行こうとしていました」

そんな中、多嶋は東海大学4年生のとき、天皇杯でリンク栃木と対戦している。オーバータイムの末に東海大が敗れたものの、その後に東海大へと獲得の打診があったのだという。

「タイミング良く天皇杯で栃木と当たりました。陸さん(陸川章氏。東海大学時代の監督)から『栃木が興味を持っている』と話され、『プロチームか』と。プロ志向が強かったので、『バスケで良ければ評価され、ダメだったら評価されない』という方が、個人的には打ち込めるような気がしていました。ほかのチームからも声が掛かりましたが、タイミング的には栃木で良かったです」

当時の大学バスケット界のトッププレイヤーは、サラリーマン的に企業に入社し、企業の部活的にプレーをする選手がほとんどだった。多嶋と同世代のプレイヤーを挙げるとするならば、北陸高校での同級生だった篠山竜青(当時・東芝所属)、東海大学での同級生だった遥天翼(当時・三菱電機所属)、後に多嶋と北海道でチームメイトとなる橋本竜馬(当時・アイシン精機所属)などが当たる。かつてロボッツに所属した選手で言えば、二ノ宮康平(当時・トヨタ自動車所属)もその一人だ。

多嶋曰く、当時の経験で言えば進路を決めるに当たって、高校や大学の監督が持っていたつながりは大きかったという。今のように、学生が自らエージェントと手を組んだり、あるいはクラブと直接連絡を取って切符を掴み取るというのは、ある意味Bリーグという1つのピラミッドになったことで受け皿が明確になり、かつ広がったから、という言い方もできるかもしれない。

多嶋が大学卒業後に迎えた2011-12シーズンにおいて、当時のJBLに参入していたのはわずか8クラブ。その顔ぶれも、トヨタ自動車・日立製作所・東芝・アイシン精機・三菱電機・パナソニックと、大企業による実業団チームがほとんどだった。その中でプロクラブだったのは、レバンガ北海道とリンク栃木の2クラブのみ。下部リーグに当たるJBL2でも構図は大きくは変わらず、参戦10クラブのうちD-RISEのほかには兵庫ストークス(現・西宮ストークス)とレノヴァ鹿児島(現・鹿児島レブナイズ)の3チームだけがクラブチームという状況だった。

一方で、当時のプロリーグだった「bjリーグ」の世界に進もうにも、新卒選手であれば、原則としてリーグのトライアウトを受験した上で、ドラフト会議でチームから指名を受けるか、改めて各チームのトライアウトを受けなくてはならない。そうしたbjリーグへの進路を、多嶋は考えていなかったという。多嶋が選んだ道が、当時いかに険しかったかが分かるだろう。

「当時はD-RISEができて2~3年が経った頃でした。『若い選手に試合経験を積ませる』ということで、栃木からは『D-RISEとの契約になります』と伝えられました。そこに対して経験が積めればと思ってたし、D-RISEもプロチームで、選手たちもプロでした。逆に『プロとは何か』を理解していない中でのスタートでしたし、『ブレックスにはそう簡単には行けないんだろう』と思っていました」

晴れて、プロ選手としての道をものにした多嶋。D-RISEの一員としての日々が幕を開けたのだが、チャンスは早々に訪れた。

「3足のわらじ」

「プレシーズン期間中や入団直後から、ほぼブレックスとD-RISEの合同活動でした。ブレックスの選手がケガ、代表招集などで、人数が足りていなかったんです。その場合、D-RISEから選手が駆り出され、常に練習をしていました」

この状況はシーズンが開幕してからも解消されず、多嶋はJBLのシーズン序盤戦で、早くもブレックスの一員としての出場機会を得るに至っている。多嶋曰く、当時の生活を説明するとこのような状況だったという。

「午前中にD-RISEの練習をして、急いでブレックスの練習に合流をして、そこからスクールの先生としての活動もある。タフでしたが、『もしかしたら、ブレックス狙えるのか?』と思えてきました。トップチームに上がるチャンスが目の前にあったら、そこを目指す気持ちはありました」

当時のD-RISEの選手たちで、この契約形態を結んでいたのは、遠藤祐亮(その後ブレックスに昇格し、現在も所属)や大塚裕土(現・アルティーリ千葉所属)らがそうだったという。D-RISEにはこれと前後して並里成(現・群馬クレインサンダーズ所属)や市岡ショーン(現・越谷アルファーズ所属、当時の登録名は「ショーン・ヒンクリー」)なども在籍していたのだが、彼らはメインとしてはブレックスと契約を結び、育成や出場機会を得るためにD-RISEに合流する、という状況だったのだそうだ。

「メンタル的にも、スケジュール的にもかなりしんどい2年間でしたけど、プロでの活動を学び、『そういうことをした選手は少ないだろうな』という経験はできたと思います」

当時のD-RISEが持っていたチームの空気感とは、どのようなものだったのだろうか。

「基本的には、チームとして勝つためにやるということは変わらないです。ただ、チームがあるべき姿として『トップに上がるためのチーム』といった意識で、経験の場でもありました。とは言え、選手がコーチにアピールをしまくるトライアウトのようなわけでもなく、ファミリー感が強いチームでした。スクールで教えながらだったので、スクールに子どもを連れてくる親御さんは、親身になって応援してくれました。また、D-RISEのスポンサーの方々もいたので、そういった方々との距離感も近かったです。『アットホームな雰囲気』というのを、全てが初めての経験ながら、勉強をしていきつつ理解を深められました」

スクールでの指導は、D-RISEの選手たちにとっては試合に出る一方で契約に含まれていて、選手によっては、それが給料に直結している者もいたという。多嶋も例に漏れず、当初週2回の担当を受け持っていたと言うが、ブレックスとの往復生活が長引き、週1回に減らすこととなった。ブレックスの一員として選手登録されている間は、D-RISEでの活動から離れていても良かったという。ただ、次第にブレックスにメンバーが揃ってきたということもあって、多嶋は再びD-RISEへと戻されることとなった。

期待ゆえに、もがいて

「当時は実業団の方が待遇が良かったかもしれない」と話した多嶋は、次第に自分の現在地を理解するようになっていた。

「ほかのチームのことは知らないし、環境がどうこう、ということはどうでも良かったです。ただ、スケジュール疲れを感じていて、D-RISEとブレックスの練習場所が違うから、練習が終われば即移動。その間で昼食、ブレックスの練習が終わったら、車で移動をしてスクールの会場へと行く。そして夜中に帰ってくる生活が続くと、体力的には厳しかったです」

こうした生活になった裏には、多嶋にかけられた期待の部分もあった。ブレックスで緊急事態が起きればすぐさま多嶋に声が掛かる。ブレックス、D-RISE、どちらからも必要とされていた存在だったからこそ、このような状況が生まれていたのだ。

「これで、上がる可能性もないぐらいの選手だったら、逆にD-RISEの選手として割り切って、一生懸命やれば良いと思うんです。上がれそうで上がれない、上がったけど出られそうで出られない。上がったけど落ちる。メンタル的にきつかったです」

自らの立場を理解していたからこそ、多嶋はもがいたし、チーム内の人物と対話を重ねた。その1人が当時D-RISEのHCを務めていた落合嘉郎(現・仙台89ERS・AC)だったという。

「落合さんと一緒に『上がるためにはどうすればいいのか』と動いていました。あの人は結構ズバズバ言ってくれるタイプのコーチだったんです。D-RISEとブレックスのバスケの内容はほとんど同じで、いつ昇格しても対応できるようなシステムになっています」

例えばブレックスにケガ人が発生し、D-RISEから急きょ選手を昇格させるとき、そこでチームの方針に大きな食い違いが生まれてしまっては、また新たに戦術を叩き込むことから始めなくてはならない。その一方で、ブレックスのHCが変われば、そのHCの志向に倣ってD-RISEも変わっていく。実際、多嶋の在籍時にもブレックスではHCの交代が起きており、当時ブレックスのACだった水野宏太(現・群馬クレインサンダーズHC)に協力を仰ぎ、戦術浸透に努めたこともあった。

そうした生活が続くうちに、栃木での2シーズンが経とうとしていた。

(後編へ続く)

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