#8 多嶋朝飛 その時を必死に生きて(後編)

取材:文:荒 大 text by Masaru ARA
写真:茨城ロボッツ、B.LEAGUE photo by IBARAKIROBOTS,B.LEAGUE

茨城ロボッツでキャリア12シーズン目を迎えたベテラン#8多嶋朝飛。彼はキャリアを一貫してプロ選手という立場で過ごしている。華麗なスキルで会場をわかせる一方で、泥臭い部分でもチームを引っ張り、今季は39試合でスターティング5に名を連ねる。そんな今季の活躍も、今は無き「TGI D-RISE」というクラブでの日々の鍛錬があったからこそ。2シーズンに渡って在籍したD-RISEや栃木から、地元への移籍、そして現在になって感じる部分。改めて今の多嶋朝飛としての感覚を、前編に続いて尋ねていく。

「トップリーグで」を志願し、移籍

結論から言えば、多嶋は2年目のシーズンでもブレックスとD-RISEを行ったり来たりのままだった。この間、ブレックスは変革期を迎えていた。前年以上に離脱者が続出し、戦績が安定しない。多嶋も若手の一員として、この年D-RISEに加入した遠藤祐亮などと、ブレックスでの出場機会を争っていた。

「上がったり、下がったりしたのは僕以外にはほとんどいないはず」と話した多嶋。「今のプロの世界でもそんな経験をした選手はほぼいないと思います」とも付け加えて、当時の状況をこう話す。

「トップチームに上がるためにやっていたので、上がったら『やった、上がれた』となるし、試合に出たり出なかったり、爪痕を残したり残せなかったりする中で、成功も失敗もあり、どうして良いかわからないまま、本当に一生懸命やるしかない状況でした。ただ、試合に出られない状況が続くと『ベンチにいさせるのはもったいない』ということでD-RISEへと戻る。1年目のそのような経験が辛かった。僕としては『試合に出なくても、トップにいることで経験が積める』と勝手に思っていました」

同じ経験は踏みたくない。2年目の開幕戦、多嶋はブレックスのロスターに入り、手応えを感じていた。だが、シーズン途中に多嶋は再びD-RISEへの登録変更を告げられる。「出番が無くても良いので残してほしい」という思いは抱えていても、それを直訴できる状況でもなかった。当時の状況を振り返えると、多嶋はさらにこう話す。

「多分、この辛さは伝わらないと思います。『何がしんどいの?上がっているから良いじゃん』って。他の選手たちからしたら『トップチームに上がりたくてD-RISEでプレーして、上がれたのだから』って言う人もいると思います。トップチームに上がった経験を話すことができても、自分の居続けたいという思いに共感を得ることは難しいです」

そして2シーズン目を終えて、契約交渉の時期に突入する。当時のブレックスからは川村卓也(現・新潟アルビレックスBB所属)が退団し、安齋竜三(現・越谷アルファーズアドバイザー)が引退した。多嶋は「トップチームの契約以外では栃木に残らない」と決めてオフに入ったのだが、契約を待っているところに、縁が訪れた。

「レバンガ北海道からオファーが来ました。実は、プロキャリアが始まる時も、レバンガの前身となった北海道バスケットボールクラブから連絡が来ていました。そのときは、先に栃木に決まっていたので断ったのですが、地元でプレーしたいという気持ちはもちろんありました」

ちなみにこの時の北海道には、正ポイントガードとして阿部友和(現・ライジングゼファー福岡所属)が在籍。そのため多嶋の立場は確約されていたわけではなく、場合によってはベンチを温めるだけになるかもしれなかった。ただ、当時の多嶋の考えが、北海道行きを強く押し進めた。

「当時はトップリーグで1年間やり続けたかったんです。2年間上がり下がりを経験していたので、出場できなくても、トップリーグで1年間過ごしてみたかった。そこで何か見える景色が変わることもあるかもしれないのでとりあえずそれをやってみたい気持ちがありました」

そこからの現在に続く活躍は、Bリーグの開幕もあり、多くのバスケットボールファンの記憶に残っているだろう。インタビュー時間の終わり際に、移籍後についても話題が及ぶ。

「移籍し、試合出場を経験できた裏には、『その時に試合に出ようとしていた』からで、『試合に出るために何をしなければいけないか』ということを考えてきたからだと思います。周りからの評価や、コーチからの信頼。足りなければ勉強し、上達させ、それをやり続けなくてはいけない。それでも結果が出なかったら、また考えるしかないと思います」

8季にわたって在籍した北海道では、地元が産んだスター選手として度々アリーナを沸かせ、それはロボッツに移籍してきた今も変わらない。ただ、その裏には唯一無二の「前日譚」とも言える日々が確かにあった。

「振り返ってこうだったと思えるように」

日本バスケ界にとっては、「動乱」とも言うべき時代をプロ選手として過ごした多嶋。その時代を生き残ったからこそ、こうして今になって振り返っていくことができているのだろう。多嶋は彼なりの考え方も交えて、改めてこう話す。

「当然D-RISEとブレックスで上がり下がりを経験したときは辛いなと思っていました。けど、振り返って色々な経験ができて良かったと思えるように。もちろんそこには成功体験もあるし失敗もありますが、その時をちゃんと生きていたという証拠だと思います。先を見すぎることも、後悔して生活することも、基本的には無かったです」

「経験をしているからこそ、また次に道が見えてきて、転換期が訪れるたび自分がするべきことを考えて行動することを続けています」

選手としてD-RISEを経験した面々も、髙村成寿(現・ベルテックス静岡U15HC)や石川裕一(現・香川ファイブアローズHC)など、指導者に転身した者も出てきている。一方、遠藤や細谷将司(現・シーホース三河所属)のように、まだまだ一線級のプレーヤーもいる。とは言え、多嶋本人が「転換期のこと」と話すように、次第にD-RISEの存在は過去のことになっていくだろう。ただ、彼らの経験は、これからも残っていくだろう。

「基本的には1年間活動し、移籍や残留の話になりますが、チーム内で上がったり下がったりすることも、D-RISEがあった意味だと思います。もし、僕とか遠藤とかがD-RISEの選手のままで終わっていれば、『何のためにある』ってなった部分もあったと、今では思えます。良い意味でも悪い意味でも、僕はそれを経験できました。遠藤のようにブレックスに上がって、残って主力であり続けることも、ほかのチームに羽ばたいて活躍することも、D-RISEの成功体験の一つだと思っています」

その時を必死に生きたからこそ

一方で、今に目線を戻すと、特にBリーグの開幕以降は、若い選手たちが将来の進路としてプロバスケットボール選手を選択しやすい環境が整いつつある。例えば大学バスケット界に身を置きながらプロとしての活動もできる特別指定選手や、各クラブのユース制度を活用した「ユース特別枠」がすでに存在し、さらには来季からユース出身者を対象とした「U-22枠」が創設される。

多嶋にとっては、一回りかそれよりさらに下の世代とも言える選手たちが、続々とプロの世界を目指している。ロボッツで言えば、今季加入した#24鍵冨太雅や、特別指定選手の#7浅井修伍もその一人だろう。経験を重ねた今の多嶋が、若い世代にもし伝えることがあるとすれば。どういった目線で答えるのだろうか。

「若い選手の考えが全て見えているわけではないですが、助言はできると思います。ただ、僕が当時そういった先を見据えて行動していたわけではなく、その時を必死に生きていただけです。例えば試合に出られていない若い選手から相談を受け、次のシーズンの進路も含めて、色々な話になると思います。シンプルに、僕は試合に出られた方が良いと思っています。当時、北海道に行ったときは『トップリーグにいたい』という移籍をしましたが、今の僕は『それは勿体ない』と思います。『出られるチームで、出なきゃ成長できないよ』と。経験しているからこそ思うし、そう話します。試合に出るために考えて行動することを、ずっと続けている状態なので『出た方が上手くなる』と僕は言えます。でも、それは今の若い選手と、その人が10年後になった時とで考えが違うし、当時の僕たちが見えている世界と、今見えている世界は全く違います。太雅、修伍と話す時もありますが、『何を求めて、何になりたいか』といった思いが必要だと思います」

選択肢はどんどん増えてきている。B1からB3までで、プロクラブだけでも53のクラブがあり、なろうとする姿によっても、できること、やるべきこと、できた方が良いことが変化していくのは、彼の言葉の通りだろう。多嶋は「あくまでも判断は自分」として、こう続ける。

「高校や大学の進学も、プロ入りも、移籍も。誰かに決められたことは僕はないです。色々な要因があり、相談に乗ってもらうことはありましたが、最終的な決断は、全部自分で、そこに責任が伴います。決めたことを上手くいかないからそれを投げ出すのは違うと思うし、自分以外の考えで進んだ道は、燃え方が違います。今は1クラブに10人日本人選手がいるとして、500人以上が『プロ』を名乗ることができる。良い選手には色々な話が行き、そこで何を選択してやっていくのか。その当時にそんなに判断があったら自分が今どういう道に進むかはわからないですが、『今どうできるか』という選択を続けてきました。そのような転換期を経験できたので、自分から話すことはないですが、経験に基づいた助言はできると思います」

新しい構造のBリーグが提唱されている今、多嶋の言葉を借りれば、10年後のBリーグの姿がどうなっているのかを誰も正確に言い当てることはできないはず。ただ、同時に彼のように、その時その時を必死に最大化し続けること、向き合い続けることで、開けてくるものもあるだろう。

それが生き様と言うには格好が付きすぎる。これらの日々を苦労話とくくってしまうのもどこかしっくりとは来ない。ただ、今後も彼の経験が生み出す選択が、その場にいる誰かに何かしらの刺激を与えてくれるはず。見る目によっては「淡々」とした繰り返しなのかもしれないが、それは彼が積み上げてきた、あるいは生まれ持ったブレなさの現れであり続けるのだろう。

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