#2 モサクダミロラ~どこまでもバスケ本位(前編)~

  • URLをコピーしました!

取材:文:荒 大 text by Masaru ARA
写真:B.LEAGUE、茨城ロボッツ photo by B.LEAGUE, IBARAKI ROBOTS

今季のロボッツに加わった3人の日本人選手たちの中で、これまで#12松本礼太、#22中村ジャズについて取り上げてきたが、その最後を飾るのが#2モサクダミロラだ。昨シーズンに新潟アルビレックスBBでプロデビュー・Bリーグデビューを飾り、今季ロボッツへと移籍をしてきたが、その来歴についてはあまり世間に知られていないことも多くある。コート内外の様子を尋ねていくうちに、どこまでも「バスケットボール」を本位にして、それを隠そうとしない、素直な彼の人柄が浮かび上がってきたのだった。

目次

「やるならアメリカ」と突き詰めて

幼少期から埼玉県で過ごしていたモサクは、11歳でバスケットボールを始める。通っていた学校や公園にあったというバスケットゴールに向けて、「毎日、何時間も打ち込んでいた」と話す。インターナショナルスクールに通っていたモサクは、その頃からアメリカ志向を持ち始めていた。

「バスケットを始めてすぐに、やはりアメリカの人たちが一番上手いのだと感じていました。それを感じていたからこそ、『上手い人たちの中で経験を積みたい』と自然に思うようになっていました」

バスケットを始めた当時は160cm台だったという身長はグングンと伸び、中学生の時点で現在(193cm)とほぼ変わらないところにまでなった。中学生ながら社会人クラブにも顔を出し、「クラブでは大人たちに負けっぱなしだった」というモサクだが、自らが成長する中で、日本でバスケットをしている自分に不安を感じ始めるようにもなった。

「日本でトップクラスになっても、アメリカに行ってどこまで通用するかは分かりません。『アメリカに行かないと分からない』と思っていたからこそ、とにかくアメリカに行きたくて仕方がありませんでした」

モサクは、アメリカ行きの夢を募らせ、アメリカとの強い繋がりを持つアマチュアクラブ「Tokyo Samurai」の一員としても活動していた。Tokyo Samuraiは、モサクのように両親のどちらかが外国の出身である選手たちが多く集まってバスケットボールに打ち込み、クラブはアメリカ挑戦の橋渡しをしていくことに特化している。シェーファーアヴィ幸樹(シーホース三河)を見出したことでも知られるチームで、モサクは、代表のクリス・シーセン氏からの教えを守り、バスケット熱を高めた。

「一番印象に残っているのは、コツコツ頑張って、バスケに打ち込んでいくという姿勢を教わったことだと思います。『上手な選手たちがたくさんいる中で戦っていくために、努力が必要だ』と教えられましたし、実際にその中でスキルも伸ばしていけました」

しかし、その一方でアメリカに行くためのハードルは残っていた。本人曰く「英語の方が楽」とのことで語学力は問題なかったが、現地の高校に入学できたとしても、渡航後の生活環境ををどう整えるのか。ここが解決しないことにはアメリカ行きが頓挫してしまう。その矢先に、道が開けた。

「アメリカに住んでいた叔母を頼ることになりました。叔母の家には、僕と年の近い従兄弟がいたのですが、『1人くらい増えても面倒も見てあげられる』とも伝えられたので、アメリカ行きが決まりました」

かくして、現地の高校に通いながらの生活が始まるのだが、日本にいたときに目指した「アメリカでバスケ漬け」の生活を迎えられたかというと、現実はそうではなかった。

バスケをしたいからこそ、プロへ

高校時代のモサクは、言わば居候のような状態。生活の面倒を見てくれる、叔母たちの家庭のルールを守らなくてはならない。その中で、モサクは次第に「バスケットファースト」とは行かない現実と戦っていた。

「日本にいたころ、両親から厳しく叱られるようなことはありませんでした。ですが、アメリカでは叔母の家のルールを守るように伝えられましたし、『勉強に集中しなさい』『バスケのやりすぎは良くない』と、厳しく指導されました」

話を聞けば聞くほど、彼の言葉は「バスケットをしたい」ことが前に出てくる。それどころか「バスケットに取り憑かれているのでは」と思えるぐらいだ。

「プレーのレベルなどで挫けることはなかったのですが、自分の中では『バスケをしたい、だけどできない』という生活に対する不満が強まっていました。もし、その時期に練習に打ち込めていれば、今はもっと上手でいるという自信があります。ただ、その厳しい環境だったからこそ、逆に『周りに感謝をしてバスケットをする』ということも学んでいけましたし、今ほど頑張りたいという感情も生まれなかったのではないかと思います」

叔母たちの教えを守って、勉強にもしっかり打ち込んだ。「答えが決まっているものを求めるのが好き」という理由から、当時は数学を得意にしていたという。成績も決して悪くなかったと振り返るが、勉強に精を出せば、1日の中では時間の制約が付きまとう。その中でそもそもバスケをしたくて渡米したのだから、「バスケット欲」も満たしたい。モサクは徐々に、板挟みの状況になっていった。

「勉強しているのは苦しかったです。しっかり勉強をしていただけに、バスケットのために使いたい時間がなくなってしまいます。ただ、食事も大事、ストレッチも大事、その上でバスケもしたい。日々の生活を考えると、何かを犠牲にしなくては両立できない状況でした。ただ、授業以外でもしっかり勉強しないと、学業面でついていくのが難しいのが分かっていたからこそ苦労したのを覚えています」

テスト前の時期、あるいは宿題が増えた時…やらなくてはならない、そしてそれをまずこなすからこそ、バスケットやトレーニングのための時間が確保しづらくなる。

「成績が下がってしまうと、そもそも部活動ができませんし、バスケットを優先しようとすると睡眠時間が削られてしまうので、そもそも授業に身が入らなくなってしまいます。正直、両立できていたとは言えなかったです。バスケットのためにアメリカに行ったのに、少し下手になってしまった。とにかく、バスケットに打ち込みたくて仕方がありませんでした」

そうした中で彼が知ったのが、「スラムダンク奨学金」の存在だった。モサクは、知人から勧められたのをきっかけに応募すると、スラムダンク奨学金の13期生に選ばれる。

バスケットボールキング
スラムダンク奨学金、13期生は2名が選出…須藤 タイレル 拓とモサク オルワダミロラ 雄太 ジョセフ | バスケ... 『SLAM DUNK』の著者である井上雄彦氏が2006年に創設した奨学金制度の「スラムダンク奨学金」。第13回を迎えた今回は、選考の結果、須藤 タイレル 拓(横···

この奨学金は、その名の通り漫画「スラムダンク」の作者である井上雄彦氏が創設した奨学金制度だ。日本の学年で言えば「高校4年生」に当たる学校、「プレップスクール」でバスケと勉強に打ち込み、その後アメリカの大学への進学を目指す。これまで多くのプロ選手を輩出し、ロボッツに在籍した選手でも、谷口大智(現:島根スサノオマジック)や鍵冨太雅(現:ファイティングイーグルス名古屋)がこの制度を用いて渡米したことを知る人も多いだろう。

ちなみに、この制度に応募するためには、自身のプレーを集めた動画、いわゆる「プレーミックス」を作って提出しなくてはならなかった。モサクは、以前から自らのプレーミックスをYouTubeに投稿していて、自らも編集していたと話す。

「プレーミックスの元になる試合の動画は、予めチームが撮影してくれています。気になったシーンをピックアップして、それを題材に家族と一緒に編集をして、奨学金への応募に使ったり、大学に送ったりしていました。別格と言えるぐらい注目された選手は、動画を作る必要もないですけど、アメリカではなんだかんだとプレーミックスを作る選手は多いですね」

その後、モサクはNCAA DivisionⅡのストーンヒル大学に進学し、モサクが2年生になろうというときに、ストーンヒル大学のDivisionⅠへの参入が決まる。DivisionⅠはアメリカ大学の大学スポーツ、もちろん大学バスケにおいても最高峰なのだが、そのタイミングで、モサクは諸事情によりアメリカでのキャリアを終えることになる。アメリカでのキャリア続行が叶わないとなった時点で、モサクの次の願いは、プロ転向に定まった。

「『バスケが上手くなりたい』という想いを突き詰めるならプロになろうと。その中でベストだと思ったのが、日本でプロになる、つまりBリーグに行くことでした」

当時の心境について、「経験を積めるチームに行きたい」とも話したモサクは、当時B1に在籍していた、新潟アルビレックスBBへの加入が決まった。(後編に続く)

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

福島県内での報道記者、大手自動車メーカーのモータースポーツ部門ライターを務めた後、独立。
茨城ロボッツを中心にB2の試合現場に足を運び、ファン目線から取材を重ねる。Twitter @MasaruARA

目次